Cafe & Bar ສະບາຍດີ 店主のZRX2日記

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中大兄皇子の知られざる一面? 和歌山県海南市 藤白神社を訪ねて ツーリング☆レポート17th Dec. 2018

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ສະບາຍດີ!(さばいでぃー!;ラオ語でこんにちは!)

 
ある常連さまから

和歌山県海南市にある藤白神社

へ行って来られたという話を聞きました。海南といえば、焼肉屋のお姉さん、元気にしているかな?今頃はもう結婚して子どもさんも生まれているだろうか。なんて昭和に流行った歌謡曲を聴くときのようにノスタルジーを感じさせてくれます。あ、店主とお姉さんとの間になにかあったわけではありませんよ。かわいらしい看板娘さんがいた、それだけの話です。
 

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目次

目的

ルート

大阪府道29号大阪臨海線

第二阪和国道

藤白神社

藤白庵

泉大津PA

movie

まとめ

 

目的

 というわけで、目指すは海南市にある藤白神社です。Google Mapsさまで確認すると、海南ICのすぐ隣にあります。店主が串本へ行くときに国道42号を使うのですが、いつも横を通っていたのですね。

 

 藤白神社へ行き、そこに祭られている有間皇子(ありまのみこ)という人について調べるのが今回のツーリングの目的です。アカデミックな旅になりそうです。

 

ルート

往路

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行きは下道で行くことにしました。

新なにわ筋国道26号大阪府道29号大阪臨海線→第2阪和国道→国道42号

 途中、ドライブレコーダー Biker Eliteの土台がぐらつきだしたので、イオンモールりんくう泉南へ寄って、接着剤を購入しました。接着剤が固まるのに時間がかかるので、Biker Eliteはここでお休みです。movieでは、途中からサブカメラのDV188の映像を使いました。

 

復路

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 帰りは、高速を使いました。和歌山市街地で道が多少混んでいたのがストレスになっていたのです。

 海南ICから阪和自動車道に入り、関西空港自動車道から阪神高速4号湾岸線へ。阪神高速16号大阪港線を経て新なにわ筋を北上しました。本当は、阪神高速16号大阪港線ではなくて、阪神高速2号淀川左岸線を走りたかったのですが、間違えてしまいました。

 

大阪府道29号大阪臨海線

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 大阪市福島区から泉佐野市へ続く府道です。大阪市内では新なにわ筋、堺から泉佐野市にかけては大阪臨海線と呼ばれています。店主は知らなかったのですが、この2つの道が、実は同じ大阪府道29号だったのです。かなり長い道路だったのですね。

 

 大阪市内では新なにわ筋と呼ばれますが、芦原橋から堺の海山町まで走った大阪市三宝線にちなみ、電車道三宝線とも呼ばれます。この三宝線が南海電車汐見橋線の上を超える鶴見橋跨線橋(つるみばしこせんきょう)は、かつて市電が通っていたらしく、なるほど、妙に狭い道幅なのも頷けます。また、バスやトラックなどのように重量が4.5tを超える車両、高さ2.3mや車幅2mを超える車両も通れません。自動2輪はすべての車種が通れないので注意が必要です。ガードレールが低いからでしょうか。

 

第二阪和国道

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 店主は幡代北(はたしろきた)交差点から入ったのですが、阪神高速15号堺線の起点となる大阪府堺市堺区翁橋町和歌山県和歌山市元寺町を結ぶ道路なんですね。淡輪ランプまでつながっていたのは店主も知っていたのですが、2017年4月に深日(ふけ)ランプ‐平井ランプ間が開通し、全ての道が通じたそうです。同年10月には深日ランプ‐平井ランプ間に孝子ランプが開通しています。暫定2車線ですが、和歌山北バイパスにおいては将来的に4車線道路となるそうです。

 

 店主がこれまで使っていた旧道は、2017年4月1日に和歌山県大阪府道752号大阪和歌山阪南線に移管されています。この道、狭いうえに信号が多くてけっこう時間がかかっていたんです。店主のように和歌山まで行く方にとっては、第二阪和国道の存在は大きいですね。もちろん、752号を使用する方たちにとっても、交通量が減少したのでこれまで以上に走りやすくなっているはずです。

 

白神社

www.google.co.jp

 いつ建てられたのか詳しくは分からないそうですが、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のお父さんである景行(けいこう)天皇の時代に建てられたと言われています。この景行天皇というのは第12代天皇だそうで、学生時代社会が本当に苦手だった店主の解釈ですと、つまり大昔からある神社だよ。その分ご利益あるかもよ?ということです。

 

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 で、この神社に到着したのが18時過ぎで、この時期この時間は辺りが真っ暗です。そして寒いです。とりあえずバイクを停めて境内に入りました。入り口で手と口を清めます。トイレに行きたかったので探してみましたが、見当たりません。

 

真っ暗です。人の気配もありません。

 

...

 

やっぱりトイレは見つかりません

 

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神様に挨拶を済ませ、有間皇子(ありまのみこ)の資料がないかと探してみましたが、暗くてよく分かりません。

 

しつこいですが、トイレを探してみましたが見つかりません。

そして寒いです。

 

...

 

帰ることにしました。

 

暗がりの中、とても大きな御神木を見つけました。優しくそっと触れてくださいと注意書きがあったので、触れてみました。

 

店主は霊感というものが欠如しているので何も分かりませんが、まあスキンシップをかわすことはいいことだと思います。ちなみに店主は霊感というものがなくて本当によかったと思っています。見たくないものを見なくて済みますから。

 

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 熊野古道の一部でもあり、熊野詣の要所だったそうです。大学時代の友達が、大阪から熊野古道を数日かけて伊勢神宮まで歩いたと言っていましたが、彼女もここを通ったのでしょうか。二度とやりたくないと言っていました。

 

 さて、結局有間皇子の情報を入手できないまま神社を去ってしまったのですが、wikipediaで調べてみると、どうも有間皇子のことが載っていないんです。あれ?関係ないのかな、と思いわかやま観光情報のサイトを見てみると載っていました。

 

藤白神社(境内社:有間皇子神社)|わかやま記紀の旅|和歌山県観光情報

 

 斉明天皇が白浜まで温泉旅行へ行く際に途中休憩に使い、神社を作ったらしいです。あれ?斉明天皇は第37代天皇ですけど...第12代天皇である景行天皇の時代じゃないの?

 

 まあ、いいや。とにかく歴史の古い神社ってことですよ。ヤンキーの吹かし話で、あの先輩のMACH750SSは200km/hオーバーだったとか、いや、軽く500km/hは出ていた、いやいや、音速超えてたぞとかいうのと同じで、とにかくめちゃくちゃ古くからあるんだなと理解すればいいのです。あ、よく読むと、社殿が斉明天皇牟婁の湯へ御幸した際に建てられたとありますね。失礼しました。神社そのものは景行天皇の時代で、そこに斉明天皇が新たに社殿を建てたということですね。

 

 で、そのゆかりで有間皇子神社を祀り、毎年11月11日ポッキー&プリッツの日に、有間皇子祭りをやっています。

 

 って、あれ?「そのゆかり」の「その」は何を指しているのでしょうか。国語の問題に出てきそうですね。文中から5文字以内で書きだしなさい。

 

 やっぱ、「斉明天皇」ですかね?

 

 となると、斉明天皇有間皇子の関係が気になります。

 

 調べたところ、斉明天皇が伯母、有馬皇子が甥にあたります。なんか読めば読むほどややこしいのですが、とにかく言えることは、有馬皇子は悲劇の人ということです。

 

 何が悲劇かというと、19歳の若さで殺されてしまいます。その理由は、謀反を企てた疑いです。西暦658年11月11日、藤白神社の近くにある藤白坂にてです。だから、毎年11月11日に有間皇子祭りを斎行(さいこう)するのですね。ポッキー&プリッツの日になんて不謹慎な表現をしてごめんなさい。

 

 有間皇子孝徳天皇の皇子として有馬温泉で生まれたそうです。だから有間皇子と名付けられたとか。お父さんである孝徳天皇は、斉明天皇の同母弟にあたります。斉明天皇と舒明(じょめい)天皇の間にできた子どものうち、2番目の子どもが中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)です。社会が大の苦手の店主でもその名を聞いた覚えがあるくらい有名な人です。ですから、有馬皇子と中大兄皇子はいとこの間柄です。しかしこの時代の婚姻関係は今の時代からすると考えられないですね。舒明天皇の后(きさき; 正室)である斉明天皇は彼の姪にあたります。中大兄皇子自身も后は、兄である古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)の娘ですから、やはり彼の姪にあたります。そして中大兄皇子の娘である持統天皇は、彼の弟の天武天皇の后なので、天武天皇も姪を后としています。さらに、この時代のセレブは夫人を複数人迎えていますし、ははぁ、政略結婚ってやつかと思わしき血縁の結婚も当たり前のように見受けられます。これが、人物像を把握するのに混乱をきたす原因の一つだと、店主は勝手に思ってています。

 

 中大兄皇子と聞くと真っ先に思い出されるのが大化の改新です。645年のことでした。と理解している方は、今の小学生たちからダメ出しを喰らってしまいます。645年に起こったのは「乙巳(いつし)の変」と呼ばれるクーデターで、当時ノリにノっていたセレブでパーリーピーポー蘇我氏を「ちっ、おもしろくねーなー。」と思っていた中大兄皇子中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中心となって蘇我入鹿(そがのいるか)をやっちゃいます。お父さんの蘇我蝦夷(そがのえみし)は翌日追い込まれて、自殺してしまいます。相当酷い追い詰め方をしたんでしょうね。で、このクーデター後に行われた政治改革が、大化の改新です。その中には、班田収授法や租庸調など、店主が言葉だけ覚えているものも含まれます。他には、年号を初めて用いた。日本書紀によると、「昭和」「平成」の元祖が、「大化」になります。また、土地は天皇のもの。オマエらなんぼ勢いあっても、土地は持ったらあかん。そして、日本の土地は、「国」「郡」「里」に分け、そのトップは天皇!としました。

 

この中大兄皇子という男は、教科書を読んでいるとまるで革命のヒーローのように思っていましたが、やっていることはけっこうエグいです。歴史好きの間ではけっこう有名みたいですが、なにぶん店主、社会が大の苦手教科でしたから。大化の改新を改めて調べてみると、蘇我氏に奪われた権力を天皇に戻した感じです。中大兄皇子自身が皇族ですから、自分たちの都合のいいようにした、とも言えます。

 

 仮に店主がこの時代に生きていたとして、おそらく平民でしょうから、蘇我氏がトップを執ろうが中大兄皇子がトップを執ろうが、あまり関心はなかったことでしょう。どちらがトップにしても搾り取るだけ搾り取られて、自分の人生を精いっぱい生きた。そんな感じだと思います。大化の改新は、皇族の立場から見れば中大兄皇子をヒーローとした政策ですが、もしも「乙巳の変」が失敗に終わり、その後蘇我氏が現在まで栄えていたら、中大兄皇子はとんでもない反逆者扱いされていたことでしょう。もちろん、歴史にもしもを言い出したらきりがないんですけどね。

 

 で、彼の極めつけのエグさというのが、自分の地位を後々脅かしてしまう可能性のある者を次々と消しちゃったことです。まあ、築いた地位を安泰にするためには、ある意味正しい行いなのかもしれません。ある意味ですよ。

 

 まずは、異母兄にあたる古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)をやっちゃいました。乙巳の変の翌日、皇極天皇(後の斉明天皇)が退位しました。自分の息子が目の前で入鹿を斬ったのがショックだったのでしょう。斬られた入鹿は皇極天皇に、「私に何の罪があるのか。」と訊いていますから、事件を目の当たりにしたわけです。中大兄皇子に「こいつ、天下を取ろうとしてるやないか!」と言われ、入鹿は殺されてしまうのです。皇極天皇退位後に古人大兄皇子に「おい、おまえ天皇やらへんかー」と声がかかりましたが、彼は丁重にお断りした上で出家して吉野に行っています。彼はクーデター当時、皇極天皇のすぐそばにいたと言いますから、中大兄皇子の恐ろしさを植え付けられたわけです。しかしひっそりと暮らそうとしていたのに、謀反の疑いあり!とチクられ、中大兄皇子にやられてしまいました。謀反の事実は不明だそうです。

 

 乙巳の変クーデターに協力した蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)も殺害します。彼は、異母弟である蘇我日向(そがのひむか)に「こいつ、裏切りを企んどるでー!」とチクられてしまいます。事件の全貌は、実は中大兄皇子中臣鎌足の策略だったと言われています。蘇我倉山田石川麻呂は二人の娘を中大兄皇子の夫人にしているというのに...ちなみに蘇我日向は、中大兄皇子のシンパだったとか。

 

 孝徳(こうとく)天皇中大兄皇子に人生を狂わされたと言えるでしょう。皇極天皇(後の斉明天皇)の同母弟で、中大兄皇子の叔父にあたります。乙巳の変の翌日皇極天皇が退位すると、その翌日、つまり、クーデターの翌々日に皇極天皇は彼女の甥にあたる中大兄皇子に位を譲ろうとしますが、中大兄皇子はこれを辞退し孝徳天皇を推します。しかし孝徳天皇はこの時点で三度辞退し、先の古人大兄皇子を推します。先述のように古人大兄皇子はこれを辞退して出家しましたから、結局孝徳天皇が即位することになりました。しかし、何ですか、この天皇の押し付け合い。よっぽどみんな嫌だったのですか?次狙われるのは、俺だ!みたいな。

 孝徳天皇のもとで大化の改新が行われたことになりますが、それほど大仰な改革でもなかったんちゃうかーという説もあるようです。遣唐使が彼の時代に派遣されることになりますが、618年に隋が滅ぼされて唐が建国したので、これまで呼んでいた遣隋使から遣唐使に名前が変わっただけです。なーんだ。彼は都を難波長柄豊碕宮(なにわながらのとよさきのみや)に移します。その一部は、大阪人にとっては馴染みのある難波宮史跡公園として整備されています。大阪城の南側に位置します。しかしその難波宮を捨て、飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや)へ帰ろうと、中大兄皇子孝徳天皇に持ちかけます。首を縦に振らなかった孝徳天皇を残して、家来とそしてこともあろうに、孝徳天皇の后である間人皇女(はしひとのひめみこ)まで連れて行ってしまいます。まあ、彼女は中大兄皇子の同母妹でもあるんですけど。彼女がなぜ孝徳天皇を捨てて飛鳥板葺宮へ行ってしまったのかは、不明だそうです。一説によると中大兄皇子と禁じられた恋仲にあったとも言われますが、それは穿った見方だとする説もあります。そんなわけで、失意の孝徳天皇は狂い死んだとか暗殺されたとか言われています。もしも狂い死んだのだとすれば、中大兄皇子に言わせると「そんなん俺知らんやんー。勝手に連れ去ったのならともかく、ちゃんと話を持ち掛けたったのに、嫌や言うからやー。」となるかもしれませんね。孝徳天皇の死後、中大兄皇子の母、皇極天皇重祚(ちょうそ)して斉明天皇となります。

 

 そして、件の有間皇子(ありまのみこ)です。彼は、孝徳天皇の息子ですが、先の間人皇女との間にできた子どもではなく、左大臣であった安倍内麻呂の娘、小足媛(おたらしひめ)との間にできた子どもです。父、孝徳天皇の死後、怖ろしい中大兄皇子の追及を逃れるために、心の病を装います。狂人として振舞ったとか。心の病を装う手口は、昔からあるのですね。もっとも、有間皇子の場合は自身が罪を犯したわけではなく、ただただ政争に巻き込まれないために行いました。そこは、決定的に違います。で、療養に温泉旅行に出かけます。行った先は牟婁の湯。これ初めて見た方には読み方が難しいのですが、「むろのゆ」と読みます。和歌山県西牟婁郡白浜町にある温泉です。白浜町ホームページによれば、無料で入れる崎の湯が、かつては牟婁の湯と呼ばれ、ここに有間皇子が遊びに来たとか。

www.town.shirahama.wakayama.jp

 で、飛鳥板葺宮に戻り、斉明天皇に「病気治っちゃいましたー。いやあ、牟婁の湯よかったっスよ。あの土地はいい、もうね、最高~♡」と伝えたところ、斉明天皇も「そんなに最高なら私らもぜひ行きたいねえ。」と、御幸(みゆき)します。こうして斉明天皇が白浜温泉旅行へ行っている間に、コトは起こります。留守番中の有間皇子蘇我赤兄(そがのあかえ)が近づきます。彼は蘇我馬子の孫にあたり、ちゃっかり娘の一人を中大兄皇子の妃(きさき; 側室)としています。「おいおい、どう思う?斉明天皇ってさー、政治の失策を3つやっちゃってるよねー。」「大丈夫だってー。俺はお前の味方だからよー。」この言葉にのせられたのか、有間皇子はこれまでの慎重な行動と決別し、蘇我赤兄に告げます。「やっちまうか...!」

 「じゃあよ、こんどうちで詳しい計画練ろうぜ。よろしくな。」ということで、日を改めて謀反計画をたてていたところ、椅子のひじ掛けが壊れたのを見て、「うわー、縁起わる―。これ、絶対よくないこと起こるよ。この計画、失敗しちゃうよ。」「タンマ、やっぱこの話ナシなー。」「ぜってー、誰にも言うなよ。俺も言わねーからよ。ぜってーだぞ!」というぐあいに、謀反計画はなかったことにするのですが、蘇我赤兄斉明天皇にチクります。この蘇我赤兄の行動も中大兄皇子指図があったという説もあります。中大兄皇子の尋問を受ける有間皇子。「オマエ、なんでこんなこと企てたんだよー。」「そんなん知らんし。神さまか赤兄に聞いてや。」しらばっくれてみたのですが、それも通じず。当時すでに、ウソ発見器でもあったのでしょうか。結局、藤白坂で絞首刑に処されてしまいます。有間皇子19歳のことでした。www.google.co.jp

 

 ここまで読み解いて、やっと店主にも理解できました。「そのゆかりで」の「その」は、やはり斉明天皇を指すのですね。有間皇子の話で牟婁の湯へ温泉旅行へ出かけた斉明天皇が、途中に寄ったこの藤白神社の社殿を建てています。そしてこの藤白神社近くの藤白の坂で有間皇子は処刑されました。そんなゆかりで、ここ藤白神社では毎年11月11日に有間皇子まつりを開催しているのでしょうね。(店主見解)

 

 また、藤白王子(ふじしろおうじ)は、九十九王子の中でも別格視された五躰王子(ごたいおうじ)の一つであるとされます。王子っていうから、また別の誰かかと思いきや、参詣途上で儀礼をおこなう場所のことだそうです。九十九王子熊野古道沿いの位置する神社のうち、主に12~13世紀に熊野修験によって組織された一群の神社のことなんです。で、この藤白神社は、藤白鈴木氏が代々神職を務めます。全国で2番目に多い鈴木性発祥の地であるらしいです。 店主の友人のあの鈴木くんもあの鈴木さんも、鈴木紗理奈さんも鈴木早智子さんも、ここがルーツだったのですか。(適当です、すみません)

藤白庵

 前述の藤白神社のすぐ隣に、何やらとても趣のある建物がありました。藤白庵と書いてあります。今回は寒くてトイレ行きたくて帰りたくて、とてもそんな余裕がなかったのですが、次回余裕があればぜひ寄ってみたいです。調べてみると、懐石料理を出すお店だそうです。この店で食事をしてトイレ借りたらいーじゃんなんていう発想は、心に余裕があるから生まれるのですよ。人間切羽詰まっていると、ときに愚かな行動を起こすものです。

 

 

泉大津PA

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 阪神高速4号湾岸線にある泉大津PAはとてもお薦めです。11Fにあるパノラマルームは、昼間行ってもいい感じです。ソファーに座り、自動販売機で購入した缶コーヒーを飲みながら静かに流れるJazzに耳を傾けていると、これ無料で使用していいのかな?と申し訳なくなってくるほどです。一度平日の昼に行きましたが、ガラガラでゆっくり過ごすにはとても快適でした。夜景もきれいに見えるようで、日の沈むあたりから夜にかけては写真を撮りに来てもいいでしょうね。土日は混むことが想像されます。

 

 今回気持ちの余裕がなく、寄らなかったのが残念でした。ここでトイレ休憩をとればいーじゃんというナイスアイディアは...以下略

 

movie

今回の動画は、ドライブレコーダー Biker EliteDV188で撮影しています。Biker Eliteは1080P 60fpsの高画質で録画可能。店主は使っていませんが、4Kでも録画可能です。DV188は前後同時録画が魅力です。

 

 

まとめ

 和歌山県海南市国道42号線を横に静かにたたずむ藤白神社。ここは熊野古道の要所の一つでもあります。中大兄皇子の策略によって、弱冠19歳の若さで命を落とした悲劇の有間皇子が祭られています。熊野古道、白浜温泉、そして中大兄皇子斉明天皇と、日本史にも非常に深くかかわっている地の一つでもありました。また日を改めて、こんどはゆっくりと訪れてみたいと思います。

 

 

 

 

 

愛車ZRX2のカスタム記録

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